エネルギー問題ねぇ…。
:解説:
久々にたわごと的なアレ。
実はエコカーへの買い替えって、ちっともエコじゃないんだよね。
車を長く乗り続ける事が何よりもエコに繋がる。
新車を作るエネルギー>>>燃費の悪い中古車に乗り続けるエネルギー
『エコ替え』なんて矛盾した単語を作ってまで売ろうとしている某メーカーは恥を知るべき。
ウソはイカンな、ウソは。
ホントにエコ活動をしたい人間は中古車を有効に活用した方がいい。
何度も修理して、完全に潰れるまで車を使うのが本当のエコだ。
ただ、そういう本当のエコをみんながするようになった場合、新車が売れなくなる。
そうすると車メーカーの業績は悪化して、下請けの仕事が大幅に無くなり、経済も悪化することになる。
自分の事ばかりでなく、マクロ視点でも考えていただきたい。
同じ国、同じ星に相乗りしている仲間なのだから。
結局、エネルギー問題が解決したら、その辺は一気に「やっちゃえやっちゃえ」みたいな流れになるとは思う。
地球のエネルギー問題を本当の意味で解決するには地球外からのエネルギーを使うしかない。
海底資源なんぞをアテにしたところで、それもまた有限なんだから。
そうなると太陽光エネルギーなんかが手頃で半永久的なパワー(45億年くらいは安定)だと思い浮かぶわけだが、
太陽光パネルを地球に設置したところで、これまたその効率と維持費に左右されることになる。
維持費以上のエネルギーが手に入れば問題は無いわけだが。
宇宙にメガソーラーパネルを組んで、そのエネルギーをマイクロ波などに変えて地球に向けて送るシステムなど、
日本ではJAXAが割と前から研究して、技術的には実現段階に入っているが、材料の劣化対策や費用など課題も多い。
とはいえ、地球規模でこれに取り組めば不可能ではない。
だけど、いかんせんお金持ちの国は資源大国だったりする。
資源大国からしてみれば、自国の資源が売れなくなるようなマネはあまりしたくない。
こういうこともあって、石油業界及び石油産出国が非協力的になり、時にはその圧力もバカにはならない。
次世代エネルギーも石油業界が牛耳るようでなければ、彼らにとって都合が悪いからだ。
そういう部分を全面的にクリアーして、地球規模で次世代エネルギーに取り組んだ場合、
『エコ』という言葉自体も死語になるように思う。
2030年くらいまでには地球規模でその流れになるんではないかと思うが、
その頃には世界の勢力図も大きく変わろうとするんじゃないかとも思う。
ひょっとしたら、その辺でまた大きな戦争になるキッカケが出来るかもしれない。
地球の人口が爆発的に増えてしまい、いずれは食糧供給を各国の政府どころか地球規模でやらなきゃならなくなり、
無尽蔵の太陽エネルギーを依り代に、巨大食物プラントが全世界に形成されて、
人々はとりあえず喰うには困らなくなる段階に入るんじゃないかと思う。
そうなってくると今度は“生きるために働く9割の人”はいなくなって、
“便利なモノを生み出す人”とか“何もしない人”とか“戦いたがる人”とか“芸術に打ち込む人”とか
これまで以上にクッキリと“人の生き方”が分かれていくような気もする。
今日、オトンに「かなり前だが、遠戚の酪農家が経営不振で借金を苦に自殺を謀って、旦那さんだけが亡くなった」と聞かされた。
そういったことも、そういう世の中になったら皆無になってくるだろう。
ただ、死にたがる人は“死ぬ自由”を得ることにもなるような気がする。
マンガ『銃夢』の公衆自殺マシン(最終喜械:エンドジョイ)じゃないけど。
本当に生きたいように生きることの出来る世の中が来た時、人類はどのように進化していくんだろう。
俺が生きている間にそれが来るのか来ないのかはわからないが、出来れば早めにお願いしたい。
争いの無い世の中は永遠に来ないような気がする。
ただ、それが悪いことだとも言い切れないように思う。
マリオカートで戦うような感覚で、F1レースで競争するような感覚で、
今まさにやっているオリンピックのような感覚で、人々が戦い続け、飽くなき向上心を持ち続けて欲しいものだ。
関係ないけど、最近なんかやたらと葬儀屋が増えているような気がする。
葬儀関係の新しい施設が全国各地に増えてきているように思うのだ。
団塊の世代が引退し、葬儀屋の需要が増える予兆であるようにも思える。
葬儀屋ってのは1000年後にも存在するんだろうか。
少なくとも、お墓ってのは無くなっていくような気もする。
タイではお墓を作ることを禁じたと聞いた。
なんでも、10人の高僧が話し合ってそう決めたんだとか。
死者のために墓を作り続けると国中が墓になってしまい、生きている人間のための国にならないということらしい。
俺も同じようなことを考えていたので、その話には深い感銘を受けた。
幽霊だのお化けだのをやたらと怖がる人に俺が言うのは、
「恐竜の時代から考えてみろ。何兆人が死んでると思う?そいつらの数%でも幽霊になっていてみろ。
もうとっくに世の中が幽霊で溢れ返ってギュウギュウ詰めだろ。生きてる人間より多くなっとるわ。」ってことだ。
とはいえ、幽霊が見えると言っている人間もウソをついているわけではないと思う。
人間の視覚ってのは全然アテにならないもので、セロトニンの分泌が変化するだけで幻覚が見えたりもする。
なので、シラフで幻覚が見えていても全然おかしくはないのだ。(存在しているわけではないが)
恐怖や暗示によってセロトニンの分泌が増減しやすい人=幻覚が見える人=霊が見える人というようなカンジだ。
その辺は症状の程度によると思うのだが。
以前、軽い統合失調症の人に話を聞く機会があって、その辺のことを教えてもらったのだが、
軽度の場合は薬を飲んでれば幻覚なんか全然見えないし、精神も割と安定しているらしい。
軽度の場合は幻覚が見えても「あぁ、またか。」という程度にしか思わない人も多いんだとか。
その人は「たまに幻覚だかホンモノだかわからなくて話しかけてしまうんですよね。」と言っていた。
彼らにとっては日常茶飯事なんだそうだ。
重度の人は薬を飲まないと本当に何がなんだかわからない状態になってしまうんだとか。
人間の脳というのはホントに繊細に出来ているんだなぁと感じた。
そんな貴重な体験談を聞けるのは、本当に有り難かった。
自分の中でモヤッとしていた部分のヒントを与えてもらったような感覚だろうか。
人生にはそういう腑に落ちる瞬間ってのが何度もあって、
その度にちょっとアタマが整理されてスッとするというか、心地良い感覚が得られる。
人間の喜怒哀楽は条件反射的に脳内麻薬を分泌し、その感情を得ることが大きい。
その条件というものを設定する方法を編み出した人なんかが宗教の始祖になっていたりもする。
ある種の偏った情報を信じ続けていれば、この上ない幸福が得られるようになるような気もする。
それが誤った情報であっても。
憧れみたいな感情がそれに結びつくことは多いような気がする。
ホストはその辺を悪用している人もいるような。
“自分にとっての幸せ”ってのを自分で設定できればいいけど、それは親兄弟の暗示によって作られることが多い。
そういったものがあまり無い状態の人が大人になってから暗示にかかることもあるけれど。
ウチのHPで言ってることも、結局は「その辺の暗示を良い方向に自分でかけてやれ」ってのが多い。
自分の幸せは自分で方向付けるのが健全であるように思うのだ。(他人の意見を参考にするのもモチロン良いが)
その暗示を間違った方向にかけちゃったり、他人や親兄弟にかけられちゃったりしてると、
なんだかよくわかんない負のループにハマって抜けられなくなったりもする。
「なんかヘンだ…」と思ったら、第三者視点で見つめ直してみるのも良い。
“もしも、自分の前に自分と同じ状況の人がいたら、どのようにアドバイスするか”というように。
自分視点でしか考えられない人は自分の感情に振り回されて自滅する事が多いからだ。
その辺を簡単に行うには自分の状況や考えごとを紙に書き出してみるのも良い。(
マニュアル『悩みは書け』)
文字にして推敲することで、自分の考えを把握し、分析し、改善することが出来る。
また、それによって自分との対話も出来るようにもなる。
エコから話がかけ離れてしまったけど、今こうして生きている時代がこういう時代なので、
これについてアレコレと考えることは間違いなく良い暇つぶしになるんじゃないかなーと思うのだ。
今回、これを考えるキッカケになったのは、高田馬場駅前で反原発運動を声高に叫んでいた人たちがなんだか狂信的で、
それってなんだか左翼に上手いこと煽動されてる人たちも多いんじゃね?と感じた部分もあったりなかったり。
耳障りの良い言葉で近付いて来る人って、何らかの企みを持った人が多いような。
宗教にしろ、詐欺商法にしろ、左翼にしろ、美容師にしろ、ホストにしろ。←笑